映画『東京裁判』を観た

上映時間4時間半もの長編、しかも平日なのに、約100席のミニシアターが満席となったことにまず驚いた。

そして、アメリカ人の弁護人ブレークニーの「戦争は犯罪ではない」という陳述にびっくりした。さらに、「真珠湾攻撃殺人罪なら、原爆投下も同罪である」という反論には度肝を抜かれた。以下の予告編の1分5秒あたりに登場する。

 

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「戦争は犯罪ではない。戦争法規があることが戦争の合法性を示す証拠である。戦争の開始、通告、戦闘の方法、終結を決める法規も戦争自体が非合法なら全く無意味である。国際法は、国家利益追及のために行う戦争をこれまでに非合法と見做したことはない」

「歴史を振り返ってみても、戦争の計画、遂行が法廷において犯罪として裁かれた例はない。我々は、この裁判で新しい法律を打ち立てようとする検察側の抱負を承知している。しかし、そういう試みこそが新しくより高い法の実現を妨げるのではないか。“平和に対する罪”と名付けられた訴因は、故に当法廷より却下されねばならない」

「国家の行為である戦争の個人責任を問うことは、法律的に誤りである。何故ならば、国際法は国家に対して適用されるものであって、個人に対してではない。個人に依る戦争行為という新しい犯罪をこの法廷で裁くのは誤りである。戦争での殺人は罪にならない。それは殺人罪ではない。戦争が合法的だからである。つまり合法的人殺しである殺人行為の正当化である。たとえ嫌悪すべき行為でも、犯罪としてその責任は問われなかった」。

「キッド提督の死が真珠湾攻撃による殺人罪になるならば、我々は、広島に原爆を投下したした者の名を挙げることができる。投下を計画した参謀長の名も承知している。その国の元首の名前も承知している。彼らは、殺人罪を意識していたか? してはいまい。我々もそう思う。それは彼らの戦闘行為が正義で、敵の行為が不正義だからではなく、戦争自体が犯罪ではないからである。何の罪科でいかなる証拠で戦争による殺人が違法なのか。原爆を投下した者がいる。この投下を計画し、その実行を命じ、これを黙認したものがいる。その者達が裁いているのだ。彼らも殺人者ではないか」。

右派の論客は東京裁判を否定するためにこのブレークニーの陳述を利用するようだが、私は東條英機をはじめとする戦犯は(さらには昭和天皇も)、法律論で無罪としても、道義的責任は免れないと思う。つまり、右派の論説には与しない。

ブレークニー弁護人の採用を承諾したのはマッカーサーらしい。アメリカは、原爆を投下するという傲慢・非道な国である一方、自国に不利な弁護を許容するという自由で平等な度量も有する。そこに驚きと不思議を覚える。

伊藤園の人権感覚

私はコーヒーよりも緑茶を愛飲するので、特に夏はペットボトルのお茶をよく買う。しかし、伊藤園の「お~いお茶」は基本的には買わない。理由は、商品名に女性蔑視の思想があって不快だから。

「お~いお茶」という言葉は誰が誰に対して発するかを考えれば分かるだろう。男が女に対して「お茶を持って来い」と命令する言葉である。

伊藤園自身も昔は、和服姿の高齢男性が「お~いお茶」と叫び、その妻とおぼしき女性が商品を持って来るというテレビCMを流していた。

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「お茶くみ」が職場における女性差別の象徴とされ、それを女性に強いるべきではないという認識が共有されている現代、それに逆行する商品名で主力商品を販売し続ける伊藤園の人権感覚は鈍い。

社会貢献とかコンプライアンスを言う前に、思い切って商品名を変えるべきだろう。人権感覚が発達しているヨーロッパなら、とっくの昔に女性たちから訴えられて商品名の変更を余儀なくされたはず。

ちなみに、以前にも書いたが、私は女ではなく男である。

 

 

大食いと食品ロス

大食いを売り物にしたタレントがテレビに出てくると気分が悪くなる。料理をただ消化器官に流し込むために口に入れるという行為は、味わったり、栄養として摂取するという本来の「食」に対する冒涜だろう。

食品ロスを報じるニュースで、まだ食べられる食品を次々に廃棄処理するシーンが映し出されるが、私には大食いタレントとダブって見える。

食べ物を大切にしようとか、食品ロスをなくそうといった健全な動きに逆行する、全くムダで見苦しい行為である。テレビ局はそういう番組を放送するべきではない。

わんこそばの早食いとか類似の大食いコンテンストも同罪。伝統的なイベントであろうと何であろうと、人間を使った食品廃棄処理はすぐにやめるべきだ。

 

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映画『主戦場』を観た

小学生の頃、音楽室にバッハ、ヘンデルハイドン、ベートーベンなど偉大な作曲家の肖像画が飾ってあった。すべて男なので、私は「男は女より芸術的能力が高いのだ」と思った。昔は(今も残っているが)男尊女卑社会で、女が能力を発揮する場を与えられなかったという社会構造を認識していなかったからだ。

慰安婦問題を扱ったドキュメンタリー映画『主戦場』を観て、そんな小学校時代の自分自身を思い出した。

例えば、「性奴隷ではなく売春婦だったから、ビルマで働く慰安婦たちは高給を受け取っていた」と衆議院議員杉田水脈が主張した後、歴史学者の吉見義明が「当時のビルマは超インフレだったので、わずかな報酬が高額に見えるだけ」とデータを示して解説する。

  

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 ケント・ギルバート櫻井よしこなど右派の論説は、表面的な事象を並べて展開されるのに対して、リベラル派の論説は歴史的事実や当時の社会構造をベースに展開される。

右派の話は、私が音楽室の肖像画を見て「女より男が偉い」と思い込んだのと同じで、肖像画という表面的事象の背後にある、女が表に出られない社会構造に思い至らない短絡的な思考に基づいている。つまり、小学生並みの思考方法である。

在日米軍は憲法違反


1957年、東京砂川町にある立川基地の拡張に反対したデモ隊の一部が米軍基地内に立ち入ったとして7名が起訴された。この「砂川事件」の裁判で、東京地方裁判所(裁判長・伊達秋雄)は「在日米軍憲法違反」との判断を示し、被告全員に無罪を言い渡した。その判決文の一部が以下。

 

 

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砂川事件(1955年頃撮影)(Public Domain)

 

「わが国に駐留する合衆国軍隊は、(中略)合衆国が極東における国際の平和と安全の維持のために(中略)戦略上必要と判断した際にも当然日本区域外にその軍隊を出動し得るのであって、その際にもわが国が提供した国内の施設、区域は勿論この合衆国軍隊の軍事行動のために使用されるわけであり、わが国が自国と直接関係のない武力紛争の渦中に巻き込まれ、戦争の惨禍がわが国に及ぶ虞(おそれ)は必ずしも絶無ではなく、従って日米安全保障条約によってかかる危険をもたらす可能性を包蔵する合衆国軍隊の駐留を許したわが国政府の行為は、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることがないようにすることを決意」した日本国憲法の精神に悖(もと)るのではないかという疑念も生ずるのである」。

 

「このような実質を有する合衆国軍隊がわが国内に駐留するのは、勿論アメリカ合衆国の一方的な意思決定に基づくものではなく、前述のようにわが国政府の要請と、合衆国政府の承認という意思の合致があったからであって、従って合衆国軍隊の駐留は一面わが国政府の行為によるものであるということを妨げない。蓋(けだ)し合衆国軍隊の駐留は、わが国政府の要請、それに対する施設、区域の提供、費用の分担その他の協力があって初めて可能となるからである。かようなことを実質的に考察するとき、わが国が外部からの武力攻撃に対する自衛に使用するという目的で合衆国軍隊の駐留を許容していることは、指揮権の有無、合衆国軍隊の出動義務の有無に拘らず、日本国憲法第9条第2項前段によって禁止されている陸海空軍その他の戦力の保持に該当するものといわざるを得ず、結局わが国内に駐留する合衆国軍隊は憲法上その存在を許すべからざるものといわざるを得ないのである」。

 

この頃は骨のある裁判官がいたようだ。

さだまさしの人権感覚

以前、仕事の付き合いでカラオケに連れて行かれ、得意先の担当者が歌った歌に仰天した。「♪~3年目の浮気くらい大目にみろよ」。男と女のデュエットで、タイトルは『3年目の浮気』。カラオケが嫌いなこともあって、心の中で「そういうアンタは奥さんの浮気を大目にみれるのか!」と叫んでいた。

その後、さだまさしの歌にも同様の詞があることに気づいた。『関白宣言』に以下のフレーズがある。

俺は浮気はしない。たぶんしないと思う。しないんじゃないかな。ま、ちょっと覚悟はしておけ。

表現の仕方は違うが、発想は『3年目の浮気』とまったく同じ、男の傲慢な開き直りだ。さらに、この歌が罪深いのは、全編に男尊女卑の思想を貫いている点。

俺より先に寝てはいけない。俺より後に起きてもいけない。めしは上手く作れ。いつもきれいでいろ。(中略)お前にはお前しかできないこともあるから、それ以外は口出しせず、黙って俺についてこい。

 

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冗談めかしているとはいえ、こういう歌を作って堂々と歌うさだまさしの人権感覚はおかしいのではないか。もともとこの人が作る歌や歌詞には人をみくびったところがあって好きになれなかったが、根底にこういう人権感覚があるからだと思う。

ついでながら、私は男である。

映画『新聞記者』

 

映画『新聞記者』を観た。日本でもようやく“メディアVS権力”を、しかも現実を題材にして描いた映画が製作され、さらにメジャー作品として主要映画館で上映されるようになったことを歓迎したい。

私は“メディアVS権力”に強い関心があり、ベトナム戦争の機密をワシントンポストの記者が暴いた『ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書』も、イラク開戦の虚妄を中小の新聞社が暴露した『記者たち~衝撃と畏怖の真実~』も観た。一昨年はオリバー・ストーン監督の『スノーデン』も観た。

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 リスクを承知で『新聞記者』に主演した松坂桃李の勇気は称賛に値する。もう一方の主役シム・ウンギョンはミスキャストだと思う。日本の女優が出演を断ったために韓国の女優を起用したそうだが、存在感が希薄で、モデルである望月衣塑子さんの気迫が伝わってこない。また、内閣調査室のシーンだけをフィルターをかけて映すのは、映画としては邪道だろう。

というような細かい欠点はさておき、こういう映画を現在の息苦しい日本社会に送り出した製作者たちに力いっぱいの拍手を送りたい。

冒頭で「日本でもようやく」と書いたが、事実に基づいて“メディアVS権力”を描いた日本映画は過去にもあった。日米政府による沖縄返還の密約を暴露した毎日新聞の西山記者が主役の『密約 外務省機密漏洩事件』。西山記者を北村和夫、機密を漏らした外務省職員を吉行和子が演じた。原作者の澤地久子として大空真弓も登場する。製作は30年前だが、再上映された2010年に観た。