映画『スキャンダル』
アメリカでニュース専門のケーブルテレビ局「FOXニュース」を立ち上げ、共和党など保守政治家にも強い絵影響力を持っていたCEOのロジャー・エイルズが、女性キャスターに対するセクハラで訴えられて辞任した。2016年のことらしい。
その事件を実名で描いた映画『スキャンダル』を、新型コロナウィルス感染のリスクを冒して映画館で観てきた。
映画しては、主役の女性キャスターが録音した音声データを流すとか、もっとサスペンスや衝撃のどんでん返しを織り込めたはずで、物足りなかった。素材が素材だけに、もう少し作りようがあったのでないかと思う。
しかし、こういう映画を製作できる土壌がアメリカに残っていることには拍手を贈りたい。日本で、大手のテレビ局のトップがセクハラ事件を起こしたとして、こんな映画は作れないだろう。
裁判では、FOXニュースが女性キャスターに謝罪し、20億円の和解金を支払うことになったらしい。戦争中に日系アメリカ人を収容所に閉じ込めたことあのレーガンが謝罪したように、こういう潔さも日本では期待できない。
ロジャー・エイルズは2017年5月にくも膜下出血で亡くなったとのこと。享年77歳。辞任した後もトランプに助言していたらしい。
キューバの社会
私たちは、消費社会のメンタリティを追い求めません。結局、あれも欲しいこれも欲しい、買いたい買いたいだけの社会になってしまうでしょう。ラテン・アメリカもアジアもアフリカも、消費社会を目指せという教育をしているし、IMFも世界をその方向に導こうとしています。
しかし、キューバは違う。消費社会が豊かな社会とは考えないのです。文化の豊かさこそが人間を豊かにするのです。そのためにも、教育が何より大切なのです。このことをキューバ国民は理解してくれています。きちんと充分に説明すれば分かってくれるのです。
『カストロ 銅像なき権力者』(戸井十月)の中での記述である。戸井本人がキューバに出かけ、直接カストロに会った際に聞いた言葉だ。
人間の欲望をエンジンにする消費社会(=資本主義社会)はいつか破綻する。その先で、人間はこういう社会を構築せざるを得ないのではないか。
キューバでは教育費と医療費は無料。医学生の教育費も無料だから、日本のように高額な教育費(=投資)を取り戻すために医者の給与を高額にする必要がない。驚くべきことに、心臓移植も無料だそうだ。
もちろんさまざまな歪みや課題はあるだろうが、理想的な社会ではないだろうか。
映画『国家が破産する日』
韓国の通貨危機を描いた映画『国家が破産する日』を観た。国際的な通貨の仕組みに疎いので全体像がよく把握できないが、金融資本のグローバライゼーションの実態を知ることができた。IMFとアメリカがグルになって韓国をはじめアジアなど中進国を収奪する背景については全く無知であった。
ウォンの暴落を予想し、ドルを買い漁って大儲けした元ファンド会社の男が次のように言う。
「政府はIMFを選ぶ。連中は市場原理主義者です。危機を脱する際も、大企業や財閥が何とか生き残れる方法を選ぶでしょう。金融支援を要請して、それを口実に大々的に構造調整を進める。危機を機会として利用し、富める者を生かす改革を試みるはずです」。
そして、主人公である韓国銀行の女性金融チーム長も次のように言う
「貧しい者はさらに貧しく富める者はさらに富む。解雇が容易になり非正規雇用が増え、失業者が増える。それがIMFのつくる世の中です」。
主人公はその不公正を告発するため記者会見するが、翌朝の新聞には何も報道されていない。権力とメディアが一体になっていた韓国は救いがたい状況に陥っていたようだ。
この韓国の権力とメディアの癒着を描いたドキュメント映画『共犯者たち』も1か月ほど前に観た。たまたまだが、韓国作品を連続して観ることになった。
『国家が破産する日』は、別々に展開されていた話が最後に結びつくなどドラマとしてもよくできていて、見ごたえのある作品である。
むのたけじの言葉
戦争中は朝日新聞の記者として記事を書き、戦後すぐに国民を欺いていたことを悔いて退社した後、秋田でミニ新聞「たいまつ」を発行したむのたけじの著書に以下の記述があった。
「思想っていうのは書くものなの? しゃべるものなの? 大学で講義するものなの? 違うんじゃないの? 思想というものは生きるものではないの? 思想は生きるものだという考えがないんだよ。だから、八月段階(=終戦)のあの強烈なショックを受けながら、いのちを賭けてどう新しい道を歩むかということを、我々日本人は行動として表現できなかったんじゃないですか」。
また、自分と同じく、終戦後に朝日新聞を去った美土路昌一(後に朝日新聞社長、全日空初代社長に就任)や入江徳郎も結局は新聞社に戻ったことを暗に批判して次のように書いている。
「そういう気持ちがあるならばなぜ、それこそ個々の良心の辻褄合わせでなくて、なぜ集団としての行動をあの八月段階でやれなかったのか」。
残念ながらすでに亡くなったが、むのたけじの前に面と向かって立てる戦後および現代のジャーナリストが何人いるだろうか。
子供と戦後世代の戦争責任
家永三郎の『戦争責任』は、当時の軍部や政治家、天皇の戦争責任だけでなく、原爆や無差別空爆を行ったアメリカ、イギリスやソ連、メディアにいたるまで広範囲にわたって戦争責任を糾弾している。驚いたのは、当時の子供や、私のように戦後生まれの世代にもそれなりの責任があると指摘していることだ。
まず、子供について、以下のように書く。
「戦争中にいまだ少年期にあった人々でも、戦争にかかわりあったことについて、少なくとも成長後に少年期の自己の言動を反省の対象とする余地があるかぎり、責任の問題と無関係ではない」。例えば、父親が戦死した子供をからかったり、徴兵に応じなかった家族をいじめたり、といった言動について反省すべきであるというのである。
さらに、戦後世代については以下のように述べる。
「世代を異にしていても、同じ日本人としての連続性の上に生きている以上、自分に先行する世代の同胞の行為から生じた責任が自動的に継承されるからである。純戦後世代の日本人であっても、その肉体は戦前・戦中世代の日本人の子孫として生まれたのであるにとどまらず、出生後の肉体的・精神的成長も戦前世代が形成した社会の物質的・文化的諸条件のなかでおこなわれたのであった」。
だから、日本の占領地であった海外へ旅行した際、日本軍の残虐行為があった施設や追悼の碑の前に立つとき、あるいは日本兵に殺された人の遺族に会ったとき、責任を感じるべきである、というのである。
もちろん、自分自身の戦争責任についても述懐している。
家永三郎の論理展開には、反論できない厳しさと緻密さがある。